もう、20年も前のこと。信州の田舎から予備校に通うために東京に出て来ました。下宿には風呂がありませんでしたので、銭湯へ通わなければいけない のですが、銭湯にはいるのは初めてで、最初のうちは洗い場で体を拭かずに脱衣所に出て来たりして、番台のおばさんに怒られたりしたものです。
予備校の授業が終わると、すぐに風呂に行きました。午後3時半頃でしょ う。いつも空いていました。
この時間にいつも風呂にいるのは、私と、スナックのマスタ-風の人、それから、ちょっと怖いパンチパ-マのおじさん。マスタ-と怖いおじさんは顔見知りでいつも話をしていました。いつも、私はちょっと離れたところで洗っていました。
ある日、私は石鹸を忘れてきてしまいました。気付いたのは洗い場には行っ てから。いつもの二人もいます。買おうにも、いつも銭湯代しか持っていません。「いけねぇ、石鹸忘れた」と、多分、私は独り言を言ったんだと思います。
仕方なく、私は、石鹸もつけずに体を洗い始めました。
私の肩を叩く人がいます。パンチパ-マのおじさんです。手には石鹸箱。
「これ使えよ」
そういって向こうに行ってしまいました。
せっかく貸してくれたのですが、「使うと後で怖いことになるんじゃない か?」、「でも、使わない方が失礼になるんじゃないか?」そんなことを咄嗟 に考えました。で、少しだけ使いました。
返しに行くと、おじさんは「どこから出て来た?」と訊きます。信州から出て来て予備校に通っていると答えると、しっかり勉強しろと言われました。
それから、私はマスタ-とパンチパ-マのおじさんと話すようになり、背中を洗いあったりしました。
大学卒業後、田舎に帰ってきて、石鹸を使う機会が減りました。ボディソ -プに戻りました。
5年ほど前、時々車で諏訪温泉に通うようになり(当時の銭湯並み200円 で入れます)、洗面器と石鹸箱を持っていきます。番台で石鹸を買ったら、牛乳石鹸の青箱。あの時、パンチパ-マのおじさんから借りた石鹸といっしょの 香りでした。
以来、懐かしく、牛乳石鹸を使っています。